4 / 6ページ
この日から、私自身が首都に移動するまでの4週間は、目まぐるしく過ぎていった。私は日本やヤウンデと現地との連絡係となり、情報の整理と現地研究者の安全確認の任務が課された。森林内のキャンプにいる彼らに伝令を飛ばし、数日で連絡手段を確保することができた。その数日後、私を除くすべての日本人メンバーの首都移送が決まったので、3月末にすべての研究者らが村に戻ってきた。大学院生の中には調査期間をあと2か月近く残している者もおり、彼は計画していた調査を断念せざるを得えなくなって、がっくりと肩を落としていた。そんな彼を見るのはつらかったが、僕にはどうすることもできなかった。
彼らは限られた時間でデータの取りまとめや作業の後片付けを急いで終えた。皆が村を発つ前日の3月29日夜、村でヤギを買い、現地のスタッフらとともに、ステーションの裏庭でバーベキューを楽しんだ。乾季も終わりに近づき雨もしばしば降るようになってきたが、この夜の空は澄み渡り、星空の下、いつまでも飲み、話した。翌朝村を出た彼らは首都到着後、日本政府らが手配した臨時便にて31日にカメルーンを発った。
一方で、国境閉鎖の後も村の様子に大きな変化はなかった。国立農業開発研究所(IRAD)の施設である私たちの調査ステーションでは、入り口に手指消毒用の石鹸と水が設置されたが、村ではこれまでより頻繁に手洗いする人も、マスクをつける人も、ソーシャル・ディスタンシングを気にする人も見かけない。そもそも村では家屋のほとんどの窓は開け放しであり、換気抜群の環境ではある。政府が打ち出した措置の中には、バーなどの夜間の営業停止も含まれていたが、街から遠く離れたこの村まで見回りに来る警察官やジャンダルム(警察とは異なる、公的な治安維持組織の職員)などはおらず、相変わらず深夜まで爆音で営業を続けていた。
村でのほとんど唯一の変化は、村にある小学校が休校してしまったことだ。とはいっても、村の小学校はそれまでも先生の都合でよく授業が休みになっていたので、それほど目立つわけでもなかった。また、街の小中学校に通っていた子供たちも学校の休校に伴って、続々と村に戻ってきていた。村の人たちの口からは相変わらずコロナの噂話が時折出るものの、どれほど警戒しているのか、実際のところはよくわからなかった。
調査終了、そして退避
村を去る研究者らを見送り、残されたのは、日本人は私だけ、カメルーン人では学生とスタッフが数名という状況になった。3月31日に日本国外務省から「アフリカにおける新型コロナウイルスに関する注意喚起(日本国外務省ウェブサイト.https://www.anzen.mofa.go.jp/info/pcwideareaspecificinfo_2020C045.html)」が発出され、私に対する退避指示も近いうちに出される公算が高かった。したがって設置している自動撮影カメラを、予定を繰り上げて回収することにした。
しかし、私自身はすでに連絡が取れない森林内でのキャンプを制限されていたため、森の奥深くのカメラ回収はカメルーンの学生や調査アシスタント、そして村人の中で携帯GPSを使いこなせるわずかな者に頼るしかなかった。急いで各チームの回収ルートとスケジュールを組み、彼らを送り出すと、私自身は日帰りで行えるカメラ回収とデータ収集に専念した。
公算通り、4月初旬には、JICAより私に首都移動の指示が出された 。また、カメルーン人も含めたすべての研究者と学生が村を離れることが決まった。これはプロジェクトの活動が大幅に縮小されることを意味する。それは村にとっても大きな出来事なので、村長に説明をしに行った。新型コロナウイルス感染拡大のため、調査滞在の継続ができなくなったこと、この問題が収束すれば戻ってくることを話した。大柄で穏やかな村長は、静かにうなずき、理解を示してくれた。