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4月10日までには、森に向かった学生やアシスタントらもカメラとともに全員無事に帰村し、なんとか調査をやりきることが出来た。疲労を押して森の中を数十キロも分け入ってくれたカメルーンの仲間たちには、いくら感謝しても足りないくらいだ。2日後の12日、2台の車に分乗した私たちは村を後にした。村の人たちには、なぜ私がコロナウイルスのまだ来ていない村から、すでにウイルスが蔓延している日本に帰らなければならないのか、理解できなかったのではないだろうか。
村を出る数日前から、カメルーンでは公共の場所でのマスクの着用の罰則付き義務化と、検問所での検温が実施されていた。未舗装路が終わるころには、街の人のほとんどが布マスクを着用しており、ふだんはパスポートを見せるだけの検問所では、白衣を着た保健省の職員からマスクの着用を確認され、額に検温器を当てられた。車の窓の外の景色が少しずつ首都に近づくにつれ、別世界の出来事だったものに実感が伴いはじめ、底知れぬ恐怖が少しずつ湧き上がってきたのを覚えている。
首都に着いても国際空港はすでに閉鎖されており、いつ日本へ発てるか は明らかでなかった。カメルーン国内の累計陽性者 は4月13日までに800人を超えており、さらに悪いことに感染拡大の中心地は、最大都市のドゥアラではなく、首都ヤウンデだった。首都で過ごした1週間は、村での暮らしの何倍もの不安と警戒心を抱かせるものだった。数日後にエチオピア航空のチャーター便が出される可能性があるという情報を得たが、それでも落ち着かない日々が続いた。最終的には予定通りチャーター便の出発が決まり、4月17日に私を含むJICA関係者数名は、無事カメルーンを出ることが出来た。その背後には、外務省、JICA、大使館など、非常に多くの人たちの尽力があったようである(朝日新聞DIGITAL.2020年4月21日記事.https://www.asahi.com/articles/ASN4P3T3RN4NUTFK00G.html)。エチオピアでの乗り継ぎを経て、19日、私たちは成田空港に降り立った。