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徹底した水際対策が進められる状況下で、筆者にとって大きな懸念となったのは、外でもない自分自身や家族がモンゴル国内での感染者第一号になることだった。新型コロナウイルスの発生以降、SNS上では新型コロナウイルスに関する真偽定かならぬ様々な噂が飛び交うようになっていた。もしモンゴル国内で最初の感染者になってしまえばどのように取り沙汰され、非難を向けられるかわからないという不安があった。
3月10日、ついにモンゴル国内で感染者が確認されてしまう。感染者はフランス人で、しかも同人は入国後の2週間の自宅隔離勧告を守らず外出していたことが明らかになった。同日、政府は食料品店以外の主要な店舗営業の一時停止を発表、テレビでは感染者の行動経路が示された地図データが報道され、感染者の行動経路に立ち寄った市民に検査が呼びかけられた。勧告に従わなかった感染者に対する非難や外国人排斥的な言説がSNS上で広まり、ウランバートルの食料品店で買い占めが行われるなど、一時的な混乱が生じた。
しかし、感染者一号が出たのちの混乱はごく一時的なものにとどまり、事態は収束にむかった。私の不安は結果的に杞憂に終わったわけである。最初の感染者であるフランス人はその後モンゴルの病院で治療を受け、無事に回復して帰国した。匿名にされていた同人はいつしかメディアで「Ankh-Otgon」氏と呼ばれるようになっていた。モンゴルでは長子の名に「Ankh」、末子の名に「Otgon」をつけることがある。つまりこれは、同人がモンゴルにおけるコロナ感染の「最初で最後」の人になってほしいという意味をこめた優しい渾名というわけである。モンゴルらしい諧謔交じりの表現といえよう。
私は事態の収束の大きな要因は情報の透明性だったのではないかと考えている。国内での感染者の確認前からモンゴル保健省は毎日午前11時に新型コロナの感染状況に関する定時会見を開いていた。この保健省定時会見では、24時間以内の新規感染者数、新規感染者の濃厚接触者への対応、世界の感染状況などが報告され、市民はテレビやラジオ、SNSなど各メディアで情報を得ることができる。私も毎日のようにFacebookでこの会見をライブでチェックし、その後すぐにニュースサイト上で文字化される会見内容をフォローしていた。なお本稿執筆時点の2月末日現在もこの定時会見は実施されている。他の多くの国と同様に、モンゴルでも新型コロナウイルスをめぐって「政府は情報を隠している」といった噂やデマが散発的に流れたが、この定時会見が事態の安定に与えた影響は少なくないだろう。
新型コロナウイルスの抑え込みに成功
その後もモンゴルは水際対策に成功しつづけた。国外からチャーター便で帰国した市民は一定期間の隔離施設での滞在が義務付けられ、隔離施設と外部のやりとりは厳格に管理された。これによりモンゴル国内における感染例は国外からの入国者の感染(いわゆる「輸入感染」)にとどまり、市中感染の発生を防ぎつづけた。水際対策の成功と市中での感染がない状況は、2020年夏のウランバートルに緊張感や制限をあまり感じることのない自由な時間をもたらした。外国との行き来ができないため例年であれば市中に溢れる外国人観光客の姿こそないものの、ウランバートル近郊の山や草原にはハイキングを楽しむ市民の姿が数多く見られ、夜になっても街の通りには人が溢れていた。9月になると2月以来オンラインで行われていた各種学校での対面授業が再開し、街には新学期の賑わいが加わった。こうしてモンゴルは、国際線フライトを除いては、ほとんど通常と変わるところのない状況となったように見えた。
新型コロナウイルスはモンゴルの政治にも大きく影響を及ぼした。6月末日の段階でモンゴル国内における新型コロナウイルスの感染者は220名(すべて輸入感染)、回復患者は175名、そして新型コロナウイルスによる死者は0名であり、防疫対策の成功は明らかだった。2020年7月に行われた国会総選挙ではこの成功を導いた与党人民党が76議席中62席を獲得する大勝を得て政権を維持した。実はモンゴルで与党が与党を維持するのは1990年の民主化以降初めてのことである(つまりこれまでは選挙のたびに政権与党が交代していた)。新型コロナウイルスの感染拡大以前にはここまで一方的な選挙になることは予想されておらず、防疫に成功した政権の手腕への評価が現れた格好になった。