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コロナはほんとうに怖いのか?わたしのケニアの知人たちの生活は、コロナへの恐怖以上の心配事で満ち溢れている。知人たちとの電話でのおしゃべりからうかがえた、それぞれの地域におけるコロナとの距離感を紹介する。
コロナとの距離感:
前回の記事では、コロナの感染拡大にともなう収入の減少、食料確保の不確実性におののき、政府の暴力を恐れる、ある種、人びとの「弱々しく」「おびえた」姿ばかりを描いてしまったように思う。それでは、ケニアの人びとはおびえて家に閉じこもり、生計活動をストップしてしまったのだろうか?
答えはもちろん、否である。2020年4月~6月頃にかけて、ナイロビのスラムの知人たちから、わたしがよく聞いた言葉を意訳すると、
「腹をすかして死ぬくらいなら、コロナで死んだ方がましだ」1)
となる。
2020年6月上旬、ケニア政府が夜間外出禁止措置を緩和したことで、コロナ以前のレベルまで仕事に復帰した人が増加したが、そもそも、働く場のあった人々の多くは、短時間であろうとも、客が皆無であろうとも、3月以降の「自粛期間」にも働きにでていた。6月以降、ケニア、とりわけナイロビで急速に感染が拡大しているのは確かだが、スラムの知人たちはコロナに対する恐れを口にしながらも、
「でも食べていけなければ、死んでしまう。自宅に籠るのがベストなのは分かっているし、できることならコロナは避けたい。でも、そうしたらどうやって食べていけるんだ。そもそも自宅は長屋なのだから、トイレもシャワーも共同で感染リスクは避けがたい。恐怖を抑えて、働きにでるしかないさ」
と強気を装っている。
またある者は、
「コロナなんて、政府の流したデマだって、みんな言っているよ。気にせず働いていいんだよ」
と、本気なのか、自分を納得させるためなのか、軽口をたたいたりもしている。
結局、かれらは商売のために店に立ち、路上を歩き、コロナ感染のリスクにさらされている。もちろん、知人たちには、わたし個人の自宅への「避難」も選択肢として示してはいるが、それでは働きに出るのが難しかったり、親族・友人・隣人との関係を維持できなかったりすることが想定されて、現在のところ、まだ誰も「避難」に踏み切る段階には至っていない。働き、仲間や友人、家族と喋り、ともに食べ、自分の居場所で穏やかに眠る、という「生活」の大切さと、感染リスク、コロナとの距離感の測り方は、それぞれ個人にとってほんとうに難しい。
わたし自身はコロナとの遭遇を非常に恐れ2)、在宅勤務を続けながらナイロビの自宅に閉じこもっている。かれらは、そんなわたしの生活の様子を聞く一方で、こうしたある種の「から元気」を語る。家にとどまることができず外で働かねばならないかれらと、その様子を安全な自宅に閉じこもりながら心配する外国人のわたし。そんなかれらとわたしの関係は、個人、民族、国の違いに基づく経済的な格差の構造を反映させているようで、どこまでも痛々しく、はかなくも見える。しかし実際には、その構造を超えて、それぞれの知人との個別の関係に基づく、かれらの温かな愛情をわたし自身は感じとっており、わたしはそれをよりどころとしながらかれらへの愛情を返しているつもりである。