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ケニアにおけるコロナとの対し方
今回の記事で述べてきた通り、首都ナイロビのスラムの人びとにとってコロナは、身近に潜む疫病であるとは言え、生活のためにはあえて軽視、あるいは無視しなければならないような存在のようだった。一方、ケニアの周縁地域に住むポコットの人びとにとって、コロナはまだまだ「遠い疫病」であった。いまは目の前に広がる、自然の恵みを謳歌するとともに、生起してくるさまざまな問題に全力で対処しなければならないのだ。ナイロビでもポコットでも、いつまでもコロナばかりにかかずらってはいられない、というわけである。
ケニアの他の地域の知人に話を聞いても、およそ上述のナイロビの知人のような「から元気」とも言える態度と、ポコットの人びとのような「遠い疫病だから大丈夫」という認識の間を行き来しているようであった。ただ人びとに共通しているのは、「政府・国際組織などから与えられた措置や規則、理念」を過信したり、「伝統的に伝えられた知識や価値観」10)に固執したりするのではなく、目の前に立ち現れる状況や問題に即して、自らの知識経験に基づく選択肢のなかから、人びとが融通無碍に対処方法を選び取っているように見える、ということである。こうした日常の生活世界における選択のあり方は、文化人類学者の松田素二により「価値基準の範列的操作」として説明されている[松田 2013]。ケニアの日常世界において、それぞれの個人の生の生き方は、家族や地域社会からの要請にさほど縛られずに、それぞれ個人の経験に即した意思決定がかなり尊重されて扱われているようにわたしには感じられている。いまはコロナが「遠い」ポコットではあっても、いつかコロナに取り巻かれたときには、各個人が状況に応じて新たな行動を選び取ることになるのだろう。
次回の記事では、ケニアの子どもたちの生活が、コロナによってどのように変容しているのかを紹介する。また、今後、医療体制が脆弱と言われるケニアの地でコロナの感染が拡大していくなか、わたし自身がどのようにフィールドの人びとと寄り添えるのか、思うところをつづっておきたい。
【参照文献】
松田素二
2013「現代世界における人類学的実践の困難と可能性」『文化人類学』第78巻1号:1‐25。
※記事一覧サムネイル写真:ケニア北西部バリンゴ郡の牧畜民ポコットのホームステッド(家とその敷地)(稲角暢撮影、2012年12月)
- ^ 今回のコロナの事例の場合、現地の植物由来の伝統薬による治療や、コロナの存在そのものを否定する託宣・予言などがあげられるだろう。