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COVID-19によって引き起こされたパンデミックは世界中に影響を及ぼした。本稿では、米国ミネソタ州在住の筆者の経験から、コロナ危機が及ぼした影響を大学教育、人種問題、子育てなどに注目して報告する。
はじめに
この文章を書いているのは2020年11月上旬、米国大統領選挙がやっと終わったところである。バイデン元副大統領が勝利する見込みだが、まだ結果は出ていない。アメリカでは今年3月頃から本格的に新型コロナウイルスの感染拡大が始まったが、これまでの経過を私個人の視点と経験に基づいて振り返ってみたい。目まぐるしく変化する日々の中で、これまでと現時点の状況を報告したいと思う。私は2010年から、ミネソタ州マンケートという人口約4万人の街に住んでいる。私は今年1月から臨時で学部をまとめる役(Department Chair)を務めることになり、その通常業務を覚える暇もないまま、コロナ危機の対策に追われることとなった。このエッセイでは私の大学のキャンパス閉鎖から再開に至るまでの過程や、教育現場にもたらされた変化などに触れたい。また、リモートワークによってもたらされたワーク・ライフバランスの崩壊や、子育てへの影響等にも触れたいと思う。コロナ危機と同時に起こっている、人種差別反対運動Black Lives Matterについて、そしてコロナ危機が映し出すアメリカ社会の構造的な歪みと展望についても考えてみたい。
アメリカの今
もしも「社会」が一つの身体だったとしたら、今アメリカ社会は何を感じているだろうか?そういう質問を学生に投げかけると、彼らは少し戸惑いながら「恐怖」、「不安」、「混乱」もしくは「感覚麻痺」というような返答をする。政治や社会の混乱を日々追っていると、社会全体の様々な感覚経験が正しく解釈されず、感覚とその意味とのつながりが崩壊しているように思える。それは、痛みを感じているのにそれを痛みとして正しく理解できない、そんな感覚機能の崩壊のように思えてならない。トランプ政権が発足した2017年から、都合の悪い話はすべてフェイクニュースとし、分断政治に徹する大統領を筆頭に、アメリカ社会は混乱の一途をたどった。コロナ危機はそんな不信感に満ちた社会にやってきて、山火事のように確実に広がっていった。11月現在、私の住んでいる中西部はまさにコロナウイルス感染のホットスポットになっている。急激に増えていく感染者の数を見て日々不安に駆られている。現時点でアメリカ国内の新型コロナウイルスによる死者は累計で23万人を超え、感染者は940万人を超えた。世界人口の4パーセントのアメリカ人が、世界全体の死者の実に20パーセントを占めている。アメリカに過去20年住んでいる私も、コロナ危機、警察による暴力とそれに対する抗議運動、そして大統領選挙という波乱に満ちた日々を信じられない気持ちで過ごしている。まるで毎日悪夢を見ているような、明日はどんな危機がやって来るのか分からない、落ち着かない日々が続いている。
コロナ危機と大学
新型コロナウイルスによって引き起こされたパンデミックは、大学のあり方を根底から変えた。3月半ば、大学の一週間の春休みが始まった時点では、まだ状況がどうなるのかわからない状態だったが、その週が終わる頃にはキャンパスの閉鎖が発表され、すべての授業がオンラインに移行されることとなった。講義内容をすべてオンラインに移す準備のために、春休みが一週間延長され、その後もう一週間延長された。私の所属するコミュニケーション学部では普段からオンライン授業をしていたため、それほどの影響はなかったものの、3000以上あるクラスをすべて一度にオンラインに移行するという前代未聞の試みは、様々な混乱を引き起こした。すべての教材をデジタル化する作業は相当な労働を要するし、寮から出たりアパートを引き払ったりして実家に戻った学生たちのデジタル環境の保証から、コンピューターの貸し出し、教科書のデジタル化、レクチャービデオの作成方法、キャプションの付け方など、教育のシステムを短期間に作り変える作業を要求された。そんな中でキャンパスに来られなくなった学生たちとどうやって繋がりを持ち続けるのか、経済的に不利な立場の学生をどうサポートするのか、キャンパスに取り残され、学内でのアルバイトの機会を失った留学生たちの境遇など、様々な問題が山積みになった。技術的支援、経済的援助、オンラインでの学生とのミーティング、大学長や副大学長によるタウンホール形式の質疑応答、などなど、私も夏休み返上で通常授業再開に向けて毎日働き続けた。自分の研究や執筆などは中断された。
一つの場所に集まって、顔を合わせて空間と時間を共有しながら「学び」が起こるという前提が取り壊され、それぞれのプライベートの空間からコンピューターのスクリーンを通して会話をする。私は今でも、Zoomを通したコミュニケーションの、そのデジタルスクリーンのつるりと平べったい感じがどうにも好きになれない。顔を合わせて話をするとき、相手の雰囲気やかすかな表情の変化など、非言語的なものの要素にいかに解釈が左右されているかに気付かされた。私のクラスはディスカッション形式が主流なので、空間を共有してこそ生まれる学びがあるということにも。これからもコロナ危機は続いていく中で、学び方の変革、この環境でどのように学びの質を守っていくのかという課題が残る。