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私の大学は、夏休み中にキャンパスの教室にカメラとマイクロフォンを設置し、Zoomを使って教室内の学生と、リモートで参加する学生とが同時に授業に参加できるようにした。これは俗にいうHyFlexという授業のやり方で、パンデミックを機にこの方法が注目を浴びた。学生にキャンパスで授業を受ける選択肢と、自宅でリモートで授業を受ける選択肢を与えることで、コロナウイルスに感染したり、濃厚接触等による外出制限が出ても学生の学びの継続が可能となる利点がある。キャンパスを再開するという大学の方針には、やはり不安や疑問を投げかける人もいた。夏休みは再開するための安全対策に費やされた。それでも不安は拭いきれなかった。パンデミックはいつ終わるのか、大学を再開するということの道徳的意味は何なのか。学生たちは文句を言わずにマスクをつけるだろうか。教員がコロナに感染したら代わりに誰が授業をするのか。キャンパス内の感染対策は万全なのか。健康面で不安のある教員やスタッフはリモートワークを許可されるのか。様々なシチュエーションを予測して議論が交わされた。ウイルスの知識やパンデミックの展望が日々移り変わる中で様々な決断をしなくてはならなかった。結果として、私の大学では学期の始まりに学生の感染者が一時増えたが、その後感染が爆発的に増えるということはなく、今の所、閉鎖を免れている。しかしキャンパスはほぼガラガラで、教室に来て授業を受ける選択肢がある学生でも、Zoomで自宅から授業に参加する学生が大半である。教員が1人、そして学生が2、3人だけ教室にいて、残りは全員Zoomにいる、という状態である。これは教員にとって非常に教えにくい環境であることは言うまでもない。
アメリカに留学している学生たちにもパンデミックは多くの問題を引き起こした。私の学生の中に韓国出身の者がいて、彼女は5月の卒業を待たずに国に帰っていった。韓国は感染対策がしっかりしていて、帰国してすぐにPCRテストを受け、親戚の家で2週間の自宅待機のあと実家に無事に戻った。彼女ともZoomを使い、時差を超えて学期の終わりまでコミュニケーションをとった。
リモートワークをしながらの子育て
3月半ばの春休みから、私と配偶者は自宅勤務が始まり、同時に当時4歳だった息子も保育園を自粛して自宅にいることになった。私の配偶者は一日中Zoomでミーティングが続くような仕事内容なので、必然的に日中は私が一人で仕事をしながら子供の面倒を見るという生活が7ヶ月続いた。それまで日中の子育ては保育園に頼り、仕事と子育てをきっちり分けることで成立していた生活のバランスが崩壊した。しかし緊急事態なので働くしかない、育児もするしかない。新型コロナウイルスの感染拡大のニュースに日々恐怖と不安を感じながら、それでもなんとか春学期を終えることができた。当初、息子は全く生活の変化を気にしていないようだった。一日中家にいても、少しも気にならないようで、それには逆に救われた。そうか、この年齢の子供というのはこんなにも親と一緒にいれば大丈夫なのか、と。私のZoomミーティングの邪魔をして同僚たちに愛想を振りまいたり、スター・ウォーズにハマったりして、日々家で遊んでいた。夏休みに入ってからは少しだけ仕事にも余裕が生まれたので近所の子どもたちと外で遊ばせたり、ひらがなを教えたりして自粛生活を少し楽しめるようになった。近所の人たちと交流する機会が増えたり、大学時代の友達たちとZoomで毎週末会ったりして、パンデミックが起こらなかったら築けなかった関係もたくさん生まれたことはありがたいことだった。7ヶ月も私とみっちり一緒にいたので、普段は英語だけ喋っていた息子も日本語の表現が増えて、そんな変化を見るのはとても嬉しかった。自分の名前もひらがなで書けるようになった。それまでは子育てと仕事の時間をきっちり分けて来たが、このような働き方もあっていいのではないか、とも思った。
子供と一緒に毎日の生活を送ることに喜びを感じる日々がしばらく続いた。しかし、テレビの前に座らせなければ3分毎に仕事の邪魔をされる生活にはやはり限界が来て、10月半ばに子供を再び保育園に通わせることに決めた。集中できない環境で仕事をするというのは非常に疲れることで、仕事も育児も両方うまく行かないという状況になっていた。秋学期が始まって2ヶ月ほど経つ頃には、仕事にも育児にも喜びを見いだせないような状態に陥っていた。気がつけば本当に心底疲れ切っていた。キャンパスが閉鎖された当初や、夏休み中の緊急事態に対処するアドレナリンがなくなって、忍耐力や創造力などがすり減り、イライラしやすく、子供と遊ぶことができなくなっていた。私の住んでいる街でも保育園のスタッフに感染者がでて教室が閉鎖されたりしていたことは知っていたが、地域の感染者数が長期的に低かったこと、大学の再開後も感染が爆発的に拡大しなかったことを踏まえて登園に踏み切った。とりあえず今の所問題なく、息子は元気に通っているが、不安が残らないといえば嘘になる。
コロナ危機とレイシズム
コロナ危機はアメリカ社会の差別構造を映し出し、同時に悪化させている。日本で問題になったような、ウイルスに感染した人や医療従事者に対する差別意識というものはあまり問題にならなかった。逆に、医療従事者はウイルスに立ち向かい、国民の命を守る英雄的な存在になっている。こういう風潮は、彼らを英雄化することでその裏にある構造的な不平等や犠牲をうやむやにしてしまうという欠点がある。アメリカではウイルスの感染者、死者が社会の弱者グループに不均衡に偏っていることが統計を見ると明確である。特に、人種による感染率、致死率の格差はアメリカ社会の差別構造をそのまま反映している。