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村から町へ
翌3月17日の朝、皆は森に持っていく食料(米など)を買い出しに行くことに、私は彼らを店に送りながら空港のある町へ移動することになっていた。けれども出発前、店主が仕入れに出かけたという電話が入った。在庫が底をつきそうなうえ、移動制限令によって物流が止まるのではと、大急ぎで出ていったという。家の前にしゃがみこんで話し合っていたバテッの皆は、店主が戻った頃にどうにか買い出しに行くから先に帰れといって、並んで見送ってくれた。ふだん彼らは見送りなんぞ特別なことはしない。いつもは陽気な皆の顔が違ってみえ、これまでで一番不安な別れだった。
町のホテルに着いて、ナシアヤム(アジア風チキンライス)を頬張りながらテレビをつけると、「本日夜12時を過ぎて3月18日になった時点より移動制限が始まるため、それより後に州をまたいで移動する人は警察へ届け出るように」とアナウンスされていた。驚いて残りの米をかき込み、バテッの友達と診療所に行った時にもらった「Singapore」と印刷されたサージカルマスクをつけて、警察署へ行った。入口には人だかりができていて、前に立った警官が紙を掲げて「我々は何も知らされていないから、この番号に電話してくれ」と繰り返していた。
混乱する政府の対応
その場で何度も電話をかけるがつながらない。紙を掲げた警官に近づいて、日本から来たのだがどうしたらいいかと泣きついてみる。すると彼は、おおー日本から来たのかと言いながら、なぜか周りの人に「彼女は日本から来たんだよ」と私を紹介し始める。マレーシアには親日家が多い。そして彼は緊急事態という言葉とは程遠い雰囲気の、おおらかそうな人だ。けっきょく彼は私と世間話をした後、「少し時間がたってから、もう一度電話してみてくれ」と告げただけだった。
すっきりしない気持ちでホテルに戻り、オンラインでフライト変更を試みるが、やはり繋がらない。夜中で航空会社のオフィスは閉じている。いろいろな不安をぶちまけるようにマレーシアの友人に相談すると、連邦警察のアプリをスマートフォンに入れておくと役に立つかもと紹介され、とりあえずダウンロードしてみる。もし空港で警官に止められても、このアプリと、さっき知らされた番号を見せれば、情けをかけてくれるかもしれないと、希望を抱く。
そのためには、あるていど綺麗な恰好をしていなければと、薄汚れた衣類を持ってコインランドリーへはしる。村での洗濯は、濁った川水で手洗いというのが精いっぱいだったからだ。コインランドリーのベンチに座ってスマートフォンをみていると、警察への移動申請義務が取り下げられたという速報をみつける。マレーシア政府も混乱しているのだと、少しほっとする。気持ちが落ち着いたところで村の皆に電話をするが、誰とも繋がらない。彼らはもう森の奥へ移動したのだろうと、また少しほっとしたのだった。
日本へのフライト
翌日の3月18日は、問題なく飛行機でクアラルンプールに移動できた。クアラルンプール空港に到着してすぐ、フライト変更カウンターを探す。フライト変更手続きの窓口は5つしかなく、その周りには人があふれていた。人が多すぎてどこが列か分からないが、とりあえず後ろの方に位置を確保する。その私の後ろに、大柄の男性が並んだ。
その後、約5時間、ボルネオ島サラワクから出稼ぎにきたという、彼の話を聞き続けるはめになった。適当に聞き流して前をむいても、すぐに彼が後ろから話しかけてきて、サラワクへ無事に帰れるか、フライト変更の追加料金を払えるか心配だという話を再開する。疲れた足を曲げ伸ばししながら、どうにか持ちこたえ、順番が回ってきてやっと解放されたとカウンターに近づくと、スタッフがスマートフォン2台とキーボードを操り、手際よくフライト変更してくれた。
翌3月19日の空港は、昨日と違ってスタッフ全員がビニル手袋とマスクをしていた。近くの香港行のカウンターには、ビニルのレインウェアとマスクを身につけ、スーツケースをビニルで覆った家族連れがいた。このところ香港からの移住者が増加している。民主化デモによる混乱から逃れる移住先として、教育環境の整ったマレーシアが選ばれるのだという。完全装備の家族連れをみて、私は自分のマスク姿を心もとなく感じた。
機内は非常にすいていて、日本到着後も特別な手続きなく入国できた。私は普段とほぼ変わりない日本の様子をみて、油断しすぎているような気がした。この当時は、まだオリンピックも開催される予定だった。