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3.国内封鎖前夜
2020年3月14日にリマに戻ると、空港やショッピングモールなどの人が集まる場所では、大型モニターで手洗いや咳エチケットを促す映像が流れていた。都市の生活様式が大きく変化していたが、感染リスクを警戒する態度は実質を伴っていないように見えた。なぜなら街中には、マスクを着けている人がほとんどいなかった。中国で感染拡大した当初に、ほとんどのマスクが中国に戻され、ペルー国内ではマスクを購入することが困難になっていた。国内産のマスクは50枚入り約4000円以上する割高のものであり、一般市民が気軽に購入できるようなものでなかった。
出国日は3月18日だったので、それまで大学や図書館を利用しようと思っていたが、閉鎖されていたためほとんどの時間を日本人の経営するペンションで過ごしていた。3月16日から15日間、外出制限が実施されるというニュースが広まっていた。私はペルーの外出制限をどこか他人事のように受けとめ、予定通り日本に帰る事ばかりを考えていた。そうした中、突如3月15日夜8時頃に、大使館から連絡を受けたペンションの人が「16日から陸・海・空のすべてを封鎖する国家緊急事態令が出された」と私に教えてくれた。私は、聞いた当初はパニックだった。決定があまりにも突然であり、どの程度実施されるのかは誰も分からなかったためである。旅行会社に連絡してみても、18日の便が飛ぶのかどうかさえ分からなかった。また、当時はペルー国内の感染者数が71人に対して日本は1500人を超えており、感染リスクは圧倒的に日本の方が高かった。
だが、このままいてはいつ帰れるか分からないという不安と、家族に会いたいという熱い思いから、私は今すぐに乗れる日本行きの別の便を探した。何とか空席のあった便は片道なのに往復と同じ価格(約28万円)であったが、慌てて購入の手続きを済ました。その時点で夜中の1時であり、あと3時間後に飛行機は飛び立つ。慌てて荷物をまとめて、ペンションの人への挨拶もそこそこにタクシーに飛び乗った。空港は混んでおり、出発の1時間弱前に何とか搭乗ゲートにたどり着いた。帰りの便は予定通り離陸し、順調に飛行して日本に到着した。着いた当初は、帰って来られた安堵と見えない感染リスクへの不安があったが、家に帰って家族に会った際には、あの時の後先を考えない即断は正しかったと実感するようになった。後々のネットニュースで、ペルー政府の国内封鎖があまりにも突然だったので、邦人約260人が取り残されたことを知った。当時は冷静さを欠いた慌てた決断に思えたが、現時点(2020年6月24日)で思い返すと、日本に帰る決断は正しかった。そう思えるほど、ラテンアメリカの感染状況は深刻なものになっていた。
4.おわりに
2020年6月23日の朝日新聞に、ペルー国内がホラー映画のような状況にあるという記事が載っていた。ペルー北部のピウラ県では一日約60人が死亡しており、死体が戸外に放置されている状況や飢えて死ぬ人も出ているという状況がホラーのようだという。こうした状況を伝えてくれた、日本を拠点とするペルー日系人の女性は、3月の段階で日本の方が、感染リスクが高いため帰国をためらい、今も不安を抱えながらペルーで生活していると述べている。現在ではリマが封鎖されており、闇営業のバスに乗って大使館の手配するチャーター便に乗る術はあるが、彼女は高額(約40万円)でとても帰国できないと悲嘆している。もし私が3月15日の夜にためらっていたら、最悪の場合、この記事の女性のような状況に置かれていたかも知れないと思うとぞっとしてしまった。
国内感染者数が少ない段階で国内封鎖や事実上のロックダウンをするなど、早くからペルー政府は対策を行っていたが、人々の外出を制限することは難しかった。人々は日常生活に欠かせない市場(いちば)や銀行などに多く集まり、そのため大規模なクラスター感染が起き、感染が爆発的に拡大した。2020年6月22日時点では、ペルー国内人口が約3200万人に対して感染者数は約25万人、死者数は約8千人であった。ペルーはマチュピチュ遺跡などに代表される観光地が多く、観光産業に大きく依存する国である。そのため、国内に再び多くの観光客を招き、以前のような経済状況に戻るためには、ペルー国内だけでなく世界中の国々での新型コロナ感染の鎮静化が望まれる。