4 / 4ページ
回檀先で、「今年は心配なので結構です」という家ももちろんそれなりにあった。しかし、それはその家の判断であり、隣の家にまでその判断を強要することはできない。逆も然りで、断る権利もあるはずだ。しかし、これまで継続的に神楽を迎えてきた家の人々の多くは、コロナ禍であろうとも神楽を断ってはならない、断ると良くないことが起きるかもしれない、毎年のことだから続けなければならないと話していた。このような話から私は、年に一度神楽の御札を授かり、神棚に上げたり玄関先にこれを貼る行為は、例えて言うならパソコンの「セキュリティソフトの更新」に近いものがあるように思った。どのような効果があるのか明確に証明されているわけではないが、神楽のお祓いを受けておけば、なんとなく安心を得られる。「宗教」や「信仰」、「畏怖」といったおおげさな話ではなく、もっと実用的な観点に基づいた判断であり、「コロナ禍だからこそ」という特別に強い意志による決定というよりも、もっと習慣的な決定という印象を受けた。こうした人々の心情と、長年の関係性の蓄積が、伊勢大神楽の回檀の継続を支えているといえるだろう。
コロナ禍で「書く」ということ
感染状況も、人々の心情も刻々と変化する。昨日書いたことが、今日には「間違い」とされる時代である。しかし、伊勢大神楽の現場に行ってみると、変わらないものもある。それは年に一度の神楽の演舞や、彼らとの交流を楽しみにしている人々の心である。コロナ禍であっても、神楽師たちを酒や手料理でもてなす接待の風習が続けられている地区も多々ある。研究者は変化や一貫性をニュートラルにとらえる必要があるのかもしれないが、こんな時代にもそのような温かい交流が続けられているということに安心し、嬉しく思っている自分を否定することはできない。コロナについての考え方は立場によりそれぞれであるので、同じ村のなかでもそうした交流が行われていることを、好ましく思わない人も当然いるだろう。飲食をともにしながら笑い合っている写真をSNSに載せようものなら、どこからどんなバッシングが来るかわからない。本稿のような記事や研究発表を依頼されることは多いが、地域の人々の間に波風を立てないためにも、神楽師が回檀を続けるためにも、そして私が調査者として現地に通うためにも、そうした「密」な現場について具体的に書けない、言えないというのが現状である。それでも10年後にこれが大事な記録になることを信じて、人々の生々しいコロナ禍事情と想いを聞き続け、ぎりぎりのところで発表していくしかないのだろう。