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3月22日(国内感染者数776件)、2週間ぶりに調査村へ戻った。今回は自分だけの車をチャーターすることができたので、服装については特に気を遣わなかった。村の近くまで来た時に、リキシャ(三輪タクシー)の運転手やバイクに乗った人がマスクをしているのを見て驚いた。シリアスなのは都市部だけで、感染者が出ていない村ではそうでもないだろうと思っていたからである。でも実際はそうではなく、村の人々も十分にウイルスを恐れているようであった。その背景には、テレビや携帯電話の普及があるのであろう。
村に戻ってから2週間程度、私はラーホールから来たという理由で外出を自粛していた。その間にも状況はどんどん変わっていき、3月24日(国内感染者数972件)からはパンジャーブ州においてロックダウンが実施された。この日、村の近くにある墓地で遊んでいた子供たちを注意しに来た警察と村の若者が揉めて、殴り合いのけんかになったそうだ。その結果、先述の村の友人Kの親戚が警察に連行された。その後すぐに解放されたそうだが、ロックダウンは都市部だけではないのか、と私はかなり衝撃を受けた。
変わりゆく状況―村内の変化と私の変化
ロックダウンが実施されてからも、調査村近隣の町にある野菜や肉などの食料品を扱う屋台は時短形式で営業していたため、食料の調達には困らなかった。実際、村の外部で行われる集会などは取り締まられていたものの、村の内部での取り締まりは行われておらず、村内では相変わらず自由に人が歩いていたし、金曜礼拝の時にはモスクに人が集まっていた(都市部においても、完全な外出禁止令が敷かれたわけではなく、規制はあるものの全く外に出ることができない状況ではなかったようだ)。それでも、感染拡大に伴って、村内において起きた変化がいくつかあった。
そのうちの一つが、アザーン(イスラームにおけるお祈りの呼びかけのこと)の回数が増えたということである。通常は1日5回、村のモスクのスピーカーを通じて村のイマーム(イスラームにおける宗教指導者)がアザーンを詠唱するのであるが、感染が爆発的に拡大し始めた3月末(3月31日の国内感染者数1938件)から、その回数が1日6回程に増えたのである。具体的には、イシャー(季節によるが大体午後8時から9時頃)のアザーン後、午後10時ころにもう一度アザーンが流れていた。さらに、村内のモスク放送にて、イシャーのアザーンの時に、村の男子は各自屋根に上ってアザーンを詠唱するように、というお達しが下されたため、イシャーのアザーンの時間になると、各方面からアザーンを詠唱する声が聞こえてきた。
それに加えて、4月頃にモスクから説教が流れるようになった。通常は週に1度、金曜礼拝の後に説教が流れることが多いが、この時期は毎日のように説教が繰り返された。そこには、アッラーに許しを請いなさい、という言葉に加え、手を洗いなさい、家を掃除しなさい、という、ウイルス対策の内容も盛り込まれていた。私の借りている空き家は、モスクのスピーカーのちょうど先にあるため、村内で一番といっていいほどの音量でアザーンや説教が聞こえてくる。その時期家に籠ることの多かった私は、毎日のように聞こえてくる説教に正直辟易してしまっていた。今思えば、外出できないストレスや、日本への一時帰国が叶わないかもしれないという不安より、なによりモスクからの放送に心を悩まされたように思う。
ちょうどその頃、日本では新型コロナウイルス感染者数の(第一波)ピークを迎えており、私の家族や友人たちもその渦中にいた。各都道府県にて外出自粛が要請され、在宅ワークになる人も多かった。そんななか、日本の友人たちとZOOMやLINEなどの通信手段を用いて「オンライン飲み会(私の場合はソフトドリンク)」と称した集まりを催すことが次第に多くなっていった。さらに、私の所属する研究科でもオンライン授業が始まったため、ゼミにも参加することができるようになった。このように、感染拡大以前は海外渡航中に参加することのできなかった「飲み会」、授業、セミナーなどに、調査村から参加することができるようになったことは、調査者の私にとっての大きな変化であると述べたい。
(その2に続く。)