Fieldnet フィールドワークする研究者の知と知をつなぐ

  • フィールドサイエンス研究企画センター
  • アジア・アフリカ言語文化研究所

特設サイト COVID-19とフィールド・ワーカー

  1. HOME
  2. 記事一覧
  3. エチオピアにおけるコロナ禍:ボラナ社会とアサラ市の場合

エチオピアにおけるコロナ禍:ボラナ社会とアサラ市の場合

2020.11.12

著者:大場 千景(アルシ大学人間社会科学研究科、文化人類学、口頭伝承研究)

アフリカ 文化人類学口頭伝承研究

3 / 5ページ

8年に一度開かれるこの大会議に関して、ボラナのみならずエチオピア内外の注目度は高い。通常であるならば、エチオピア南部やケニア北部に居住するボラナをはじめとし、オロミア州政府から政治家や行政官、首都周辺部からの報道陣、世界各地からの研究者、飲食や日用品の販売といった商いに携わる人々、他地域からの老若男女等々が集まってくる。政府は、コロナ問題に加え、ガーヨ周辺にはオロモ解放戦線の過激派が潜伏しているため、群衆が集まるグミ・ガーヨの中止を要請していた。しかし、ガダのリーダーたちは、断固として要請を受け入れず、コロナ予防と過激派対策のためのあらゆる措置を政府と共に行っていくことを約束し、中止も延期もせず、慣習通り、2020年の8月に実行することに決めた。

ガダ階梯では8年間、数々の通過儀礼が目白押しで、しかも儀礼を実行すべき日取りが慣習上決まっている。つまり、ガダのリーダーたちは、8年間の変更不能な過密スケジュールを抱えているのであり、そもそも延期は不可能であった。当初、私はコロナ禍や国家的な政情不安があるのに、慣習の遵守へと突き進むガダのリーダーは何て決断力があって偉いんだと単純に称賛していたのであるが、ボラナの老若男女はこの断行についてもっとシビアな見解を持っていた。曰く、もちろんグミ・ガーヨは重要な慣習だが、それ以上にガダのリーダーたちは、グミ・ガーヨの開催によって得られる、エチオピアやケニアの地方自治体や政府、NGO、企業などからの援助物資や莫大な義援金が目当てなのだ。

人間が行為を行うには様々な動機があり、それらは通常混然一体となっているものである。どれが本当でどれが嘘というものでもない。グミ・ガーヨはボラナ社会の運営のために中止することはできないという使命感、慣習を遵守するボラナという他者イメージ、コロナ禍にも関わらずグミ・ガーヨを開こうとする我々というヒロイズム、そしてそれによってもたらされる富。どれも外すことができない断行の動機なのである。

ガダと氏族の役職者たち (2020年8月24日大場千景撮影)
グミ・ガーヨを開始するために木の下に祈りに行くところ。
先頭を歩いているのが71代目のガダの父(ガダのリーダー)であるクラ・ジャルソ。

5 コロナによる死あるいはクラスターの感染源になるという妄想
私にとって、グミ・ガーヨに参加しないという選択肢はあり得なかった。グミ・ガーヨで氏族やガダのリーダーたちが行う会議での意思決定の過程や方法を参与観察しながらガダの政治実践を記録することは、私の著作を完成する上で、必要不可欠な作業であると判断したからだ。一方でコロナ感染地域からの人々の流入、群衆の密集密着は容易に想定され、死ぬかもしれないとも考えた。ボラナの友人知人に私が万が一死んだら遺体は日本に送らずにガーヨの地に埋めるようにというと、笑いながら、ガダの父が呪術を施したからコロナはやってこない、とか、我々はいつもワーカ(土着の神)に祈っているのだから、コロナはやってこないと言っていた。

7月半ば、グミ・ガーヨを調査することを決断した私は、アサラのアルシ大学付属病院でPCR検査を受けた。結果は陰性で、その結果を書面化してもらい、その日の夜、ボラナの友人が運転するトラックに便乗し、700キロを夜通し走って早朝ヤベロの町についた。ボラナにコロナを持ち込むという事態は絶対に避けなければならないことであり、そのために細心の注意を払いつつ、できるだけ早くガーヨの地に定着しなければならないと考えた。グミ・ガーヨの開催自体は8月後半であるが、氏族やガダの役職者とその家族は、その1ヶ月ほど前にガーヨに家畜と家財道具一式とともに移住してヤーという名の集落を形成する。ヤーの集落はいわばボラナの政治の中枢である。ヤーの住人たちは、ガダ階梯で行わなければならない通過儀礼を遂行するために、8年の間ボラナの各地を移住しながら共に暮らす。もちろん、グミ・ガーヨはそのヤーの集落で開かれる。従って、私も彼らが集落を形成する時期にガーヨにたどり着き、人々とともに暮らしながら、人間関係を構築しつつ、グミ・ガーヨの開催を待つということに決めた。私自身はボラナにとって既知の存在となっていたが、アルシの地というボラナにとって「遠い」地からきた私へのコロナ疑惑を早めに払拭するためにも、また、一筋縄ではいかないボラナの「政治家」たちの調査を遂行するためにも、それは重要なことであった。

実際、ボラナにおいて外部から来た者へのコロナ疑惑は相当なものになっていた。この頃アサラでは、コロナは存在しないか、それほど恐ろしくない病と考える人も出てきていたが、ボラナにおいては、とてつもなく恐ろしい病として警戒が強められている時期であった。夜行トラックに乗って、早朝ヤベロの町についた私は、そのまま、早朝発のアレーロ行きのバスに乗って、十年来通い続けているアラヘ翁の村に行くことにした。アラヘ翁の村でガダに関わる通過儀礼が行われるということもあったが、その村の近くでガーヨに移住する途中の氏族やガダの役職者たちの一行がキャンプをすることになっていたからだ。ついでに調査の布石として挨拶をしておこうと思ったのだ。ところが、アラヘの村にほど近い小さな町場のような集落にたどり着くと、いわば村役人的な人物から、ボラナ外部から来た者を県の許可なく地域に入れないようにとのお達しがきているから、ヤベロに戻って県の許可を得るまで村落にはいってはいけないとの警告を受けた。彼は、私が携えてきたコロナ陰性証明書の紙を手に取ることすら恐れていた。私が証明書を見せながら説得しても納得してくれなかったが、近くでキャンプしているガダの役職者たちから許可が出ればよいかと提案したら、その提案は受け入れてくれた。そこで、私は、氏族とガダの役職者たちのキャンプ地に行き、ガダのリーダーたちにコロナ陰性証明書を提示しながら、グミ・ガーヨでの居住と調査に関して許可を求めた。彼らは快く受け入れてくれた上、県庁の方にも私の到着と調査について伝えておくと言ってくれた。

ガダの人々が私の存在を受け入れてくれたのでほっとはしたものの、私は内心自分がクラスターの感染源となって、私に関わった人々にコロナをうつしてしまうかもしれないという妄想にしばらく苦しめられた。私は自分が死ぬことよりも、それが一番怖かった。また、コロナにかからなくとも、いらぬ疑いをもったり、もたれたりしないように、風邪でもひいて咳き込んだり、体調が悪くなったりすることは絶対できないとおもい、自分の免疫力よ、強まれ!誰にも何事も起きませんように!と毎日祈っていた。そんなわけで、ボラナ社会に入って2、3週間は生きた心地がしなかった。しかし、その後、私にも私の周りにも何も起こることはなかったので、ボラナの誰かが私にコロナを感染させる可能性があっても、私が感染媒体になってボラナでクラスターを発生させる可能性がなくなったことに心底安心した。

1 2 3 4 5
ベトナムはCOVID-19に「勝利」できるのか?―ハノイで経験する予防と対策 »
« 新型コロナウイルス感染拡大のなかでフィールドワークを続ける:パキスタンにおける農村調査—その1—

地域で記事を探す

  • 欧州
  • アフリカ
  • 中東
  • アジア
  • 大洋州
  • 北米
  • 中南米

タグで記事を探す

  • 社会学
  • 特別寄稿
  • 文化人類学
  • アンデス地域研究
  • 民族音楽学
  • 歴史学
  • 中東近現代史
  • 哺乳類生態学
  • 野生動物管理学
  • 霊長類学
  • ペルシア文学
  • オセアニア地域研究
  • 東南アジア地域研究
  • ジェンダー研究
  • 口頭伝承研究
  • 南アジア地域研究
  • 比較教育学
  • 地域研究
  • 生態人類学
  • 西洋中世史
  • 中東史
  • コミュニケーション学
  • 中東中世史
  • 民俗芸能研究
  • オスマン帝国史
  • 都市史
    • リンク集
    • Fieldnetに戻る
    © 2020 ILCAA
    PAGETOP