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このエッセイは、エチオピアの大学に勤めながらフィールドワークをしている人類学者が、大学のあるエチオピア南東部の小都市とフィールドのある南部の牧畜民社会という二つの地点からみてきた、2020年3月から現在まで、ここ8ヵ月ほどのコロナ禍の記録である。
1 はじめに
私は、エチオピアでオロモ語を母語とする諸社会をフィールドとしている文化人類学者である。エチオピアの南東部に位置するアサラという名の地方都市にある国立アルシ大学で教鞭をとっている。アルシ大学は調査対象の一つであるアルシ社会に最も近い大学であり、私は人類学を教えつつ日々調査/研究を進めている。エチオピアの大学教育は様々な困難に満ち満ちているが(それ自体がすでに研究対象になりえるぐらい興味深い現象であふれている)、エチオピアの大学の教員であるということで、長期滞在のビザや調査許可が比較的容易に取れ、いつ、いかなる時もフィールドワークができるという恩恵をうけている。従って、エチオピアにおいて最初のコロナ感染者が発見された2020年3月13日以降、現在(2020年11月3日)に至るまでエチオピアにいながら、コロナ禍とエチオピア社会を眺めてきた。
コロナ問題が持ち上がった3月半ばから7月半ばまでの約4ヵ月間は、私は大学に行くことも、フィールドワークに行くこともせず、アサラにある自宅にひたすら引きこもりながら、卒論や修論の指導をしたり、フィールドで収集してきた録音データの整理や翻訳をしたり、ボラナやアルシに関する本や論文の執筆を行なったりしていた。その後、7月半ばから9月の半ばにかけては、私のもう一つの調査対象であるエチオピア南部のサバンナ地帯で牧畜を生業とするボラナの人々のところでフィールドワークを行っていた。本稿は、このボラナ社会とアサラという都市的空間からみたコロナ禍の記録である。
2 コロナ禍の緊張感と揺らいでいく社会的親密さ
エチオピアで最初のコロナ感染者として発表されたのは日本人であった。第一感染者は、アサラ市から60㎞ほど離れたデーラという町で100人規模の教育に関する会議を開いた後、感染が発覚したという。アサラからほど近い場で、しかもアルシ大学の教員たちも参加していたということで、大学関係者は騒然となり、3月半ばに予定されていた国際学会の延期、大学の休講の決定が即座にくだされた。
最初の感染者の発表以来、3月から4月にかけて、新規の感染者が続々と発表されていく中で、アサラは徐々に緊張感に包まれていった。日本人に次いで初期に報道されていった感染者たちの多くはヨーロッパ系の外国人だった。一方で、エチオピアの外国人居住者の中で最大多数になる中国人の感染報告がメディアの報道に一件も出てこなかったのは奇妙であった。人々の噂のレベルでは中国人が工場関連の会議に登場してその後感染が発覚しただとか、道端で卒倒しているのを目撃しただとかささやかれていたのではあるが。
そんな中私は、現金を大量に銀行からおろし、市場で生鮮食品や保存可能な食料品や飲料水の買いだめを行なってひきこもり体制を整えることにした。アサラに住んで3年目、私の存在もこの小都市の住人に既知となってきているので、「コロナ」と連呼されたり、乗車や飲食の拒否といった不当な差別をうけたりすることはなかった。しかし、市場で私が咳を一つした時、商人たちから疑惑に満ちた恐怖の眼差しが投げかけられたのを覚えている。「外国人が感染源」という認識が人々の間に日に日に流布していく中で、不必要に町場をうろうろして万が一アサラのどこかで感染者がでたら、クラスターの発生源としていらぬ疑いをかけられるかもしれないと妄想するようになった。ここはひとまずエチオピア人自身の感染報道が出てくるまで鳴りを潜めるのが得策、とこの時強く思った。
2020年4月11日にエチオピア政府から5か月間の緊急事態宣言が発令された。5人以上の集会の禁止、国境閉鎖、握手の禁止、家賃の値上げ禁止、解雇の禁止、公共交通機関における定員の50%を超える乗車の禁止、スポーツの試合や行楽地等の営業禁止、教師と学生の対面授業の禁止等々が宣言され、違反者には、3年以下の懲役または20万ブル(約100万円)の罰金が科された。これ以降から5月にかけて、人々の緊張感はさらに高まっていった。人々は動くことをやめ、交通機関はほとんどストップし、定期市も停止した。仕事にあぶれた若者たちが町々でたむろしはじめた。この時期、アルシ西県のコフォレの町では富裕層の商店へ若者集団が打ちこわしを行ったという情報が流れ、町々の金持ちたちを震え上がらせていた。人々は親密な挨拶も集まりも、教会やモスクでの祈りもやめた。ギスギスした空気の中で、世帯を共にする人間以外はすべて災いももたらすかもしれない者として疑惑の目を向け合い、エチオピア社会の中で無条件に流れていた、特有の、あたたかな社会関係の親密さがこの時期消え去っていた。