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私は研究留学のために2019年10月末から翌年3月上旬までイランの首都テヘランに滞在していた。本来は4月上旬までの滞在を予定していたが、2月にイランでも新型コロナウイルスの感染者が報告されるとその数は即座に急増し、帰国を早めることを余儀なくされた。
はじめに
私はペルシア文学を専門とし、特に1906年に生起した立憲革命に至るまでの時期の文学に注目している。今回は、〈イラン立憲革命期の「翻案文学」に表出する知識人の文学的手法〉をテーマとし、研究指導を受け、資料収集を行うべく研究留学を行った。2019年10月~2020年3月という約半年の間には新型コロナウイルスの感染拡大以外にも様々な出来事が次々と起こり、私にとっては激動のイラン滞在となった。1979年のイスラーム革命以来最大の危機とも言われる状況となったイランについて、私が目の当たりにした様子を記したい。
感染者確認までのイラン情勢
感染者確認以前のイランは、すでに混乱状態にあった。まず、私が到着して1ヶ月が経った頃の11月にはガソリンの価格が3倍に値上げされた。これに抗議する人々が抗議デモを行うようになり、一部暴徒化した人々は銀行などを焼き討ちにするまでになった。政府はこのようなデモ活動を拡散するSNSを規制すべく、インターネットを2週間に渡り遮断した。突然インターネットが使えなくなるという事態に陥り、さらにインターネットが遮断された最初の日は季節外れの大雪まで降る始末であった。
そして、年明けの1月3日には、革命防衛隊のソレイマーニー司令官がイラクで米軍によって爆殺され、対米関係が過去最悪といえる状況となった。対米関係の悪化に伴い、日本の外務省発表の渡航危険レベルは3(渡航中止勧告)に引き上げられてしまった。さらに、イラン側の誤射によりウクライナ航空機が撃墜され、多数の死者を出すという惨事も発生した。
ソレイマーニー司令官暗殺後、およそ1ヶ月後に外務省発表の危険レベルが3から2に引き下げられた。これは1979年にイスラーム共和制になった革命記念日である2月11日を待ってから発表された。
緊張の緩和も束の間……
安堵していたのも束の間のことであった。それは2020年2月19日の夕方、イラン北部の都市であるタブリーズへ旅行をした帰りの寝台列車に乗っている時であった。とうとうイランに新型コロナウイルス感染者が出てしまったというニュースが報じられたのである。さらに、感染者は既に死亡しているということが明らかになった。イランと中国は経済的に強い結びつきがあり、ビジネスマンの往来が盛んであるため、早い段階で感染者がいるのではないかと思っていた。友人の間では感染者がいたとしても隠蔽しているであろうと話していた。ちょうど2月21日にイランの国会選挙があったため、それまではきっと感染者の情報は公開しないであろう、と。残念なことに、この予想はほぼ的中してしまった。この感染者の報告とその死亡が伝えられたのは、イランの国会選挙のキャンペーン期間が終わってすぐのことであった。イラン初の感染者が、テヘランに隣接する宗教都市コムから出たと報じられた時は非常に驚いた。偶然にもこの1ヶ月ほど前に、私はコムへの旅行をしていたためである。その後、コムを閉鎖すべきだという声が相次いで上がったものの、テヘランに最も近い宗教的都市であるためか実行されなかった。