7 / 7ページ
社会的距離の変容
この他にも、今回のパンデミックに際して人類学や人文系の分野が応答すべきテーマや現象は少なくない。以下は現時点で思いつくほんの一例だが、例えば今回のパンデミック状況を通じて、顔や身体の表現であるとか、あるいは身体間の距離の取り方(いわゆるソーシャル・ディスタンス=社会的距離)をめぐる各地域ごとの状況とその変化なども今後の研究課題の一つになりうるように思われる。というのは、顔や身体をめぐる表現やソーシャル・ディスタンスをめぐる状況が、今回のパンデミックを受けて世界各地で少なからず変化しつつあるからだ。
例えば顔の隠蔽に関しては、今回のパンデミックが起きる前までは、欧米では顔を隠蔽する場合はサングラスを使用することが多く、日本人のようにマスクを使用して顔を隠すことはあまりない、といった差異が指摘されてきた。概して日本などに比して欧米はじめ海外ではマスク着用の習慣が欠如しているという指摘が一般的であった。
しかしながら、こうした状況は、新型コロナ感染症のパンデミックを通じて変化していくような兆しもある。例えばフィリピンを例に取ると、これまでは日本に比べてマスクを着ける習慣はあまり一般的とは言い難かったのは事実である。しかし今年に入ると、ひとつは首都圏ではタール火山の噴火を最初のきっかけに、そして更に今回の新型コロナ感染症の流行を契機としてマスク着用者は目に見えて急増しており、また自治体によってはアメリカと同様にマスク着用を義務化した場所も出てきている。
社会的距離(social distancing)に関しても、東南アジア各地ではこれまで、概して人と人の距離が近いような国や地域が少なくなかった。フィリピンもその典型であり、ジプニーなど公共の乗り物ではラッシュ時には狭い車内でもどんどん客が乗り込んで僅かな隙間をも見つけて席に座るといった行動が普通であった。また家族や友人など親しい間でのボディタッチなども日本などに比べて概して頻繁であったと言える。
しかし、こうした傾向も新型コロナ感染症の蔓延により変化の兆しが伺える。既に3月の時点で日本に先駆けてフィリピンではスーパーや建物内のエレベータでも床にテープが貼られるような場所が増えており、またコンビニではレジと売り場をビニールで区切るなどの措置が導入されていた。店では売り子と客の間を紐や棒などで挟んで、なるべく距離を取るようにするなどの措置も導入されるようになった。
こうした変化が、今回のパンデミックを背景とするあくまで一時的な現象なのか、それとも「アフター・コロナ(ないし「ポスト・コロナ」)」にも長期的に影響を及ぼすような変化であるのか、現時点ではまだ不明である。また、身体表現や社会的距離の問題に限らず、概して新型コロナ感染症が東南アジアなど各地の社会や文化、習慣などにいかなる中・長期的なインパクトを及ぼすのか、その含意はどのようなものなのか、などを含め検討すべき点は他にも少なくないだろう。
更には、これまでの文化人類学で一般的な手法であった対面的なフィールドワークが困難になった状況下で、いかにして調査研究を継続していくのか、などの点をはじめ、今回のパンデミック状況下で人類学や関連分野の文脈で検討すべき喫緊の課題は他にも山積している。
感染拡大から現時点までは、先述のジャカルタでの国際シンポジウムの件をはじめイベントの急な中止など、刻々と変わる状況に振り回され続けた数か月であった。今後も新型コロナ感染症をめぐる状況の推移には予断を許さず、この状況下での研究の円滑な実施には、少なからぬ困難が付き纏うであろうことも残念ながら否定しがたい。しかし、そうした暗鬱な状況に直面して思考停止してしまうのではなく、むしろこうした状況下だからこそ、できること、すべきことを見出しながら、さまざまな研究上の課題への応答を今後も持続していきたい。